それは寒い日のことでした。はゆっくり白い息を吐いて深呼吸をすると、 自転車のペダルに重力を乗せて漕ぎ始める。頑張っている、という言葉が似合うほど 懸命に学校へと急ぐ。がらがらの自転車置き場に黒い自転車を置くと籠から鞄を取り出して 駆け足、息切れも苦しくないと感じるのは総悟という存在がの中で大きいからだろうか。 教室の扉を開くと、誰もいない。(来てないじゃん。)

「自分が来いつったくせに!」

受験の日が刻々と迫る高校三年生の二月上旬、目指す大学の一次試験に向けて と総悟も勉強という二文字から逃れることはできなかった。 デートの数も日に日に少なくなり、ついに今ではクラスの違う二人が顔を合わす機会なんてなかった。 そんな矢先、朝の強化補習に参加しようと総悟が言い出した。も総悟もお互いに家が遠いため 会う時間と言えば学校の合間くらい。昼休みに一緒にご飯を食べて、その後互いの時間を過ごして終わる そんな毎日が続いていた。総悟もも面倒くさがりだったためにメールは一切しない。事務的な連絡以外は。

「あり、一足遅かったかィ」

ごたごた考えていたに割って入った乾いた声。 総悟は手に持っていたipodの電源を切ると耳からイヤホンを抜いた。 口元にわざとらしく微笑を浮かべると「俺の負け」と手をひらひらさせ自分の席に着いた。 彼女はそれが気に食わなかったらしく、眉を寄せると乱暴に鞄を置いた。

「こんなに朝早く来なくてもよかったんじゃん、何なのもう」
「まァいいじゃねェかィ。他の奴等、蹴落してやりやしょう」

おもむろに机から参考書を取り出す総悟を見ていると、「置き勉じゃん」とがぼやく。 机を合わせつつちらりと総悟を見遣るが、彼を見ていると受験生だという気合が感じられない。 それでもその雰囲気とは裏腹にくるりとした愛嬌のある目を開き真面目に本へと目を落とす。 二人の間にページをめくる音だけが響いた。は、この沈黙が不思議と違和感に感じた。

「総悟、前髪切った?」
「…切ってねーけど。」

目線を総悟はあげなかった。この空間にが居ることなどまるで別、とでも考えているように 目を参考書へ配る。それは今朝のが必死で自転車をこいだ「懸命」という言葉が似合っていた。

「昨日何してたの?」
「…勉強。」
「だよね、」

今度はが黙る番だった。おもむろに参考書をめくるとわざとらしく溜め息をついた。 真っ白のルーズリーフを見ているとなんだか虚しい。(あたし何やってんだろ、) 黒板には今日の日付、そして日直の名前。冬の朝独特の乾燥した空気、におい、すべてが の嗅覚を刺激した。

?泣いてんのか?」

すん、と鼻を鳴らすと総悟を見つめる。だけど私の瞳はからからに乾ききっていた。

「嘘泣きかよ」
「嘘なんてついてませーん、ついてるのは総悟でしょ?」
(あたし、知ってるんだから。)
「は?何が」
(しらばっくれないでよ)
「もしかしてバレてた?」
(可愛らしく首を傾げたって、許さないんだから)
「別に隠してたわけじゃねェぜ」
(よくいうよ)
「ただ、言おう言おうと思ってもどうにもこうにも言葉が出てこねえ。だってそうだろ? 自分の夢を取るか自分の女取るか、どっちか天秤にかけて俺が出した選択はアンタじゃ無い。」

ノートに描いていた文字はやがて止まり、折れたシャープペンシルの芯が転がった。 その現実を叩きつけれるほど総悟はサドじゃなかったらしい。本当は、は あっさりと彼が言ってくれることを期待していた。本命の大学に行くから県外に出る ということ、会う時間なんて今よりずっと減ること。そして、別れの言葉。

「心配して、損した」
「え?」
「じゃあ、簡単だよ。あたしたち別れよう」

今度は総悟が驚く番だった。少なからず、は泣くと思ったから。 だけど見つめた彼女の瞳は乾ききっていた。ただ、もう、空っぽで総悟をうつしていなかった。

「総悟の我侭に付き合うのもう飽きちゃった」
(嘘だろィ、)
「だから県外にでも何でもいっちゃってください」
(俺を見て、ちゃんと言えよ)
「総悟なんてだいっきら、」

の言う、好きな男への「嫌い」は、ほとんど嘘だということを総悟は知っていた。
(相手が俺なら、当然でィ)

だからキスして黙らせた。けれどもその行為が、彼女の乾いた瞳から大粒の涙を流させる原因に なるのは考えれば簡単なことだ。 (ただ俺が、お前だけを見ていられたら良かったのにな)


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