長くて暗い夜道、じゃのめ傘を握る腕がふるりと震えた。
延々と降り止まない雨に飽き飽きとしている私は早足で歩く。
足場は悪く、雨だからといって行燈も置いてきた。仕事帰りに女一人の夜道は
今の京では危険だとされている。ああ、そんなことを思ってるが故だろうか呼び寄せてしまったに違いない。
細道の脇から出てきた浅黄色の袖がゆるりと揺れて闇夜に浮かび上がった。悪寒が頭から足先まで、一気に
駆け巡る。
「…貴殿をさんとお見受けする。」 「壬生の狼が、何の御用でしょうか。」 一歩後ずされば一歩追い詰める、決して相手と私の間合いは縮まらないし離れない。 遠目から見れば随分と小柄に見えるが落ち着きようからして位の高いものに違いない。 「狼だなんて随分な言い草だねェ、まァ否定はしないケド。」 「私、本音を隠さない性質なの。」 「君の事なんてどうでもいい。それより、前に京で一番近い村が一つ全滅したって聴いてネ、話によるとどうやら原因は阿片らしい。」 「それが私にどう関係が?」 「風の噂じゃ若い娘が密売をしてここらに持ち込んでるっていう話サ。丁度君と同じ背格好の年頃の女で。」 「あら、だからって決め付けはよくないわ。」 「可笑しいネ、君に売ってもらったと言う人の証言がたくさんあるんだけど。」 「それで?」 「とりあえず調べるから死んで欲しい」 「拒否権は?」 「愚問だ。」 要するに、無いということか。私は相手にも聞こえそうなほど心音を高め、眉を寄せた。 もしも此れが知れてしまったらきっとお仕舞いだ。 「あなたの名前は」 「新撰組弐番隊隊長永倉新八。三つ数えて待ってあげる、自害するなら今のうちにドーゾ。」 「誰が、」 自害などするものか。しかし相手の眼は嘘偽りなど言っていない、傘もささずに立っている男の髪から雫が流れ落ちる。 そろそろ笑えない状況になってきた。月灯りも無い癖に、彼が抜いた刀は怪しく光る。 まるで地獄へと誘うと灯火のようで背筋が凍る。ああ如何しよう。如何しようも、無いではないか。 「ひい、ふう、」 せめて小路さえあれば後退してそれなりに戦えるものの、今の私には何の成す術がない。 頭を必死に回転させ流れ落ちたのは雨水か、それとも汗か。どちらともつかないものがポタリと地へ 「…―み。」 落ちた刹那、ばさりと傘が宙に舞い日本刀の切っ先がこちらへと向かう。 確実に相手を仕留めるための新撰組特有の突きは傘を破り真っ直ぐこちらへ伸びた。 おかげで間合いが取れなかったのだろう、横へ上体を逸らして避けた。すかさず次の攻撃が。 今度は足を狙った下段のはらい、避けるように跳ぶと相手の顔面へと思い切り蹴り上げる。難なく避けられた。 「そうこなくっちゃ、ネ。」 嗤っている。眼の奥の光は消えず、ただ口元だけが攣り上がっていて狂気染みている。狼が牙を剥くと 恐ろしいことになると誰かが言っていた。もしかしたら私はとんでもないものに目をつけられたのかもしれない。 ぎり、と奥歯を噛み締めると拳を握った。帯に隠し持っていた短剣を素早く取り出すと息を大きく吸い込む。 地を力の限り蹴って永倉という男めがけて走る、刀を横に構えた相手もこちらに向かって走る。上から振り下ろされた 刀に短刀をぶつけ薙ぎ払う、男の力と女の力ではかち合うのは不可能。競り負けるに決まっている。 だから払うことで精一杯、今度は勢いをつけて回し蹴り腕も同時に振るうと短刀の刃が相手の袖を落とした。 次の瞬間、びゅんと凄まじい音が私の耳に響き刀が風を起こして二人の間を駆け抜けた。ばちゃん!水溜りの中に落ちる足。私の足だ。 まるで自分のものじゃない声が悲鳴になってあがる。そのまま身体も均衡を崩したように地へ落ちた。もがくように短刀を握り締めた 手を動かす、永倉にも当たればいいと思った。思った?分からない、もう痛みで脳が働かない。 「足だけじゃ駄目か」 低い声がどこかから流れる、そして今度は私の腕から鈍い音がした。もう声なんて出ないと思ってた。 だけど誰かに酷く犯された時のような喚きと嘆きと叫びが込み上げる。同時に全身の血液が逆流する、と思ったら血が吐き出た。 土が瞬く間に血の海へと変わるのが分かった。まるで水溜りの中に顔ごと突っ込んだようなそんな感覚。 だけど変だ、私は生きている。呼吸は上手く出来ず器官がひゅうひゅうとなっているけれどじきにおさまるだろう。 「さん、生きてる?」 背筋がぴくぴくと引き攣って痙攣が止まらない。覗き込んだ永倉新八の顔がぼやける、涙が目から零れ落ちた。 どうしてこんなことになったんだろう、思えば病気がちの母に薬を買うためにと思って始めた仕事だった。 貧しくて貧しくて父は死に、弟も疫病で死んだ。阿片を売るのは割の良い仕事で簡単なものだ。 身体を売って運べばさらに高額な支払いがくる。お金が必要だった。お金が全てだと思ってた。(なのに、) (私はどうしてこんなところで) 「…だけ、なのに、」 「え?」 「這いずって、…っ生きてただけ、なのに…」 涙が止まらない、目が痛い、もう声なんて出ないと思ってたはず。どうして私は今、こんな風に生きているの? すべてが間違ってたの? 「君がその生き方を選んだからだヨ。俺は、俺の生き方を選んだだけ。それが正義か悪かなんて誰にも決めらんねェ。 ただ、後悔するくらいならその道を選ぶべきじゃない。」 ああそうか。私は誰かにそう言って諭して貰いたかったのかもしれない。生き様なんてとてもじゃないけど立派なもの ではない。きっと彼だってそうなのだろう、所詮狼は狼。誰にもその正義を理解されずに終わる運命かもしれないのだ。 そして雨の重力に負けるように呼吸を吐き出して目を閉じた。 |